カルチャーショック

「 東南アジア 」

僕が日本で育ててきた価値観を見事一新して、その場所に新しいボランティアへの精神の「芽吹き」を心に植え付けてくれた場所。

話しは昔に遡る。当時の僕は、親父の経営するカフェでイタリアンジェラートを作っていた。地元では結構有名なケーキ屋で全盛期の週末には客待ちも出るほど繁盛していた。自分の気に入った車を乗り回し、友達も沢山いて何不自由ない生活。はっきりいって人生を謳歌していたと思う。でもそんな時に偶然知り合った人から聞いた旅の話しに触発された。そんな世界もあるのかと。一度も海外旅行に行った事のなかった僕にとってはそれは新鮮な「物語」だった。それ以来「冒険心」が沸々と顔を出し始め、そこから時間をかけず行動を起こした。仕事の帰りに立ち寄った旅行店に行って、オーストラリアへの片道チケットを買っていた。愛車を売って渡航資金にした。

そこから僕の人生が大きく動き出した。

1998年のインドネシアではジャカルタで暴動が起き、インドネシアの貨幣ルピアが暴落していた頃にそこにいた。オーストラリアからバリ島に入り、そのままフローレス島方面の東の方の島々にフェリーと陸路でコモドオオトカゲのいるコモド島まで移動していた時の事。ある島でフェリーに乗り込んだ。そこの桟橋は木造で結構背の高い、屋根の付いたなかなかのものだった。海面まではおよそ5m程、青空はいつもより濃いめでその中に存在する太陽が辺りを眩しい光で照りつけ、それが透き通った海を通過してキラキラと輝かせていた。その近くから上へと延びて行くカタコトと鳴る階段を昇って桟橋を渡る。前がやけにはしゃいでいたので目を向けると、子供連れの団体が光るものを海に投げ込んでいた。その行き先には、真っ黒な子供2,3人が大きな叫び声をあげてそれを催促する。それは「お金」だった。子供達は投げた放物線を見て予測し、落下地点めがけて潜っていく。海がすごくキレイだから深みに落ちても容易に見つける事が出来ていた。子供達にもコインを投げさせて喜んでいた。その様はまさしく池の鯉に餌をやる「人間と魚」の関係だった。その子供達は自分達のすべき事をした後、そのフェリーに無賃で乗り込み、煙突近くの屋根に登ってタバコを吸って遠くを見ていた。年は8才から10才くらい。日に焼けて角から角まで真っ黒だった。遠くを見ていた目は冷たく、自分の人生は所詮こんなものだというある意味悟った目をしていた。とてもショックだったと言いたいが、言葉ではそれが表現出来ないくらいものを心に受けた。今でもあのタバコを吸う少年の姿が脳裏に焼き付いている。人生の終わりを見ているような目だった。

ここにたどり着くまでに色々考えさせられていた。数えきれない子供から大人までの物乞いが、執拗にお金を催促してきた。ツアー料金やバス料金をふっかけてくる大人達もいたが、小さな漁村の街では、子供達が興味津々で純粋な笑顔で挨拶をしてきた。ペンをくれないかと英語でささやく子供にはペンをあげた。試行錯誤した結果、果物を余分に買っておいて子供にはお金の代わりにあげていた。喜ぶ子供もいたが、そんなものはいらないと横柄に現金を要求する子供もいた。本当に可愛そうな病気を持つ老人にはねぎらいの言葉をかけ(英語でしか言えなかったが)多目の金額を渡してきたが、心は満たされなかった。

特にそのフェリーに乗った夜は眠る事が出来なかった。

どうしたら色々な人達を助けてあげられるか、悶々とした頭の中で考えた。物乞いをする子供達には靴墨セットをあげてそれでお金を稼いでもらう、そうすれば持続的に収入を得られるのではないかとか、職業訓練所を作りたいとも思った。連れて帰って養子にしたいとも思った。それには勿論お金が必要だ。自分達に出来る事は何か、人間とは何か?とか掘り下げていくとそれは底なしだった。

最終的にたどり着いた結論は「今、自分に出来る事を精一杯しよう」という事だった。

日本に帰国後、すぐにインドとネパールの女の子達の里親になった。それは結婚するまで続けたが、今は沢山の人達を助けられる「慈善団体の設立」が最終目標になっている。

この思い、今はまだ「幼木」の段階だけれど、「青々と茂る大きな木」になって拠り所となれる日陰をつくれるように日々成長したい。そんな想いを心の中にメラメラと燃やしている。